クルトンパパさんのコメント:
TBありがとうございます。
どっちの事件も信じられない事件ですね。
弁護士の正義、どこにあるのでしょうか?悪いことは悪いと認めたうえで、そこから弁護は始まって欲しいものです。
こいつが無罪なら、世の中には犯罪者はいない。
そしておっしゃるとおりです。「疑わしきは罰せず」なら「更正が疑わしきは出さず」に徹して欲しいものです。
Darth Alexios さんのTB:
弁護士の正義ってなんだろうで、「暗黒のフォースを持つシス卿がなぜに社会正義の話を」というのは置いといて(笑)、私自身は双方同意します。
刑事事件に置ける弁護士の正義について、さとしさんが指摘されています。 弁護の仕方にもいろいろあるでしょうが…嫌疑が濃厚であっタとしても尚、無罪主張することも場合によっては必要なのでは?と思います。 と言うのも、裁判の正当性を維持せしめ、真実を発見するには、弁護人に積極的真実発見義務を課すべきではないし、証拠不十分であるならば、それを主張して行くのは、弁護人としてあるべき姿なのではないでしょうか。 もしも、そうでないとするならば…。極東裁判であるとかフセイン裁判といった裁判のように... ...続きを見る
総論=Darth Alexiosさん、各論=クルトンパパさん ということです。
確かに全く予備知識のない方がこのエントリを読んだ場合は誤解を受けそうなので、刑事裁判について前提条件を説明すると、一番の基本は「疑わしきは罰せず」であり「立証責任は検察側にある」ということです。そして被疑者には自分に不利な供述をしない権利(黙秘権)があり、弁護士には「消極的真実義務‐勝敗にとらわれて真実の発見をゆるがせにしてはならない。」という規定(弁護士倫理規定第7条)があります
詳しく書くと正にDarth Alexiosさんのエントリの通りになりますのでご一読ください。
それを踏まえた上で、なぜ「凶悪犯罪》行政も司法も何をやっているのか!?」を書いたかというと「立証責任は検察側にある」からと言って弁護側は何を主張しても良いのか? つまり弁護士倫理規定を遵守しているのかってことです。
今回取り上げた「4女性連続監禁事件」の石島(小林)泰剛被告は公判で起訴事実の認否について
「女性と(一緒に)いた事実はありますが、不法に監禁しておりません」と述べ、起訴事実を全面的に否認した。と黙秘やあるいは偉いセンセー方の常套手段「記憶にございません」という供述ではなく、一切を「否定」しています。
(中略)
起訴事実については、いずれも「監禁を企てたことはありません」と述べ、女性たちをホテルなどに呼び出したとされる点については「呼び出したことはありません」「自己の意思で来たものです」と否定。「(監禁場所とされたホテルなどから女性たちは)いつでも離れることができました」と監禁を否定した。
また、女性たちの顔や腹部を殴るなどしたとされる点や「外に見張りがいる」などと言ったとされる点についても、「一切ございません」「そのような言葉は一切発していません」と、「一切」を繰り返して否認した。(朝日新聞の記事から引用)
ここでもう一度刑事裁判の原則を確認すると、被告には自分に不利な供述をしない権利(黙秘権)があるだけで、虚偽の申告をする権利はありません。また弁護士には真実の発見をゆるがせにしてはならない義務があり、真実をねじ曲げる権利はありません。
つまり、裁判で被告が上記のような発言を繰り返したということは本来なら弁護士は被告が真実を述べていると確信していると考えられます。
・・・とてもそう思えないんですが。
例えば法廷小説などで弁護士が被告に対して「私だけには真実を話してください。私を信頼して真実を言わない限り、私は貴方を弁護できません」と言うような場面があります。もちろん被告は弁護士に事件の真相をすべて話す必要はありませんが、嘘を言っては弁護は成り立ちません。必ずと言って良いほどどこかで破綻します。
実は昨日「凶悪犯罪》行政も司法も何をやっているのか!?」のエントリを書いた後に「これもそうだな」と思うニュースがありました。
桶川ストーカー殺人 首謀の男に2審も無期懲役 東京高裁
こちらは弁護士の社会正義どころか警察の社会正義も厳しく問われなければならない事件ですが、
被告側は1審で無罪を主張したが、控訴審で、猪野さんに危害を加えるよう共犯者に指示したことを認めた。そのうえで「目的は殺人ではなく傷害を負わせることにあった」と傷害致死罪にあたると主張していた。これに対し高裁判決は「被告は共犯者に殺害を依頼し、確定的殺意が認められる。控訴審での供述は抽象的であいまいな部分が多く、1審と同様に信用性は低い」と退けた。ということで、一審で小松武史被告は「(名誉棄損以外の)他の事件についてはすべて無罪、えん罪」と主張していたのに、二審で一転して傷害の意図はあったが殺意はなかったと供述を変えているわけです。
なぜ、一審と二審で起訴事実の認否に差があるのか? これでは勝敗にとらわれて真実の発見をゆるがせにしていると疑われてもしょうがないでしょう。一審と二審で事実認否が変わったことが高裁判事の心象を悪くしたことは間違いないでしょう。
「4女性連続監禁事件」についても被害女性の供述調書の信用性が立証された場合、弁護士は「裁判に負けた」とか「二審は事実は認めた上で情状酌量を勝ち取ろう」というように考えるんでしょうか?
きちんと弁護士の社会正義に基づいて裁判に臨んで欲しいものです。
物事には多面性があり、何もシスが社会正義に反しているわけではなく、シスもまた社会正義なのですよ(笑)
返信削除長くなったので記事にします。
ジェダイ占い?でフォースがアナキンとヨーダの狭間にあると判定された私めとしては、その考えには同意します(笑)
返信削除どっちが良いか考えた末にアナキン選んだし(爆)
弁護士の職務として、被告人の利益の代弁者である以上、このような弁護を行なうことはわかります。が、少なくとも法を守る立場にあるものとして、最低限の守るべき倫理があって欲しいと思っているんです。被告人の明らかな嘘に付き合い、たとえばオウム事件のようなものに、われわれの税金が、投入されている現状、見ていて嫌になります。
返信削除被告人を守る、弁護士として当然の事なんでしょう。が、最も守らなければならないのは、社会正義のような気がするのですが。
クルトンパパさん>
返信削除桶川ストーカー事件では1審で被告人が虚偽の供述をして弁護士もその供述に沿って弁護した結果、2審の供述も「1審と同様に信用性は低い」とされたのは間違いないですね。
そうなると、弁護士は結果的に被告人も社会正義も守れないということになります。
今後仕事が減って淘汰されていくのかも知れませんが。
きのう、さとし(うっちー)と司法へコメントしなかったー。
返信削除>クルトンパパさん
返信削除社会正義を逸脱した者が刑法等により処罰されるわけで、被告人よりも社会正義を弁護人が優先してしまっては、お白州的な裁判になってしまいませんでしょうか。
つまり、検察側と被告側が対等であって、その攻防の中で真実を発見していくという現在の刑事訴訟のシステムから外れてしまうのではないかということです。
被告側があがくので、検察側はより確実性のある証拠を集めてきますし、それによって真実が明らかになるわけです。
弁護人も一緒になって、被告人の粗探しをするようになるのでは、被告人はどうして検察と対等に出来ましょうか。
誰に真実を話して、誰に訴訟の相談が出来るのでしょうか。
社会正義は刑事訴訟全体が担えば十分だと思います。
それが出来るほど、検察の捜査能力は強力に出来ているんですから。